カテゴリー「アフリカ」の2件の記事

2013年12月 8日 (日)

◆マンデラ氏の人生と世界 2013.12.8

 ネルソン・マンデア氏が5日死亡した。95歳。反アパルトヘイト運動の先頭に立ちその廃止に貢献し、南ア初の黒人大統領として新生国家の建設と人種の融和に努めた。同氏の歩みは「差別との戦い」や「融和」の象徴となり、世界の尊敬を集めた。訃報を聞き、世界やリーダーシップについて改めて考えさせられる。

▼偉大な指導者

 マンデラ氏の死後、世界各国の指導者が追悼の声明を発表した。ズマ南ア大統領は「偉大な人物を失った」と悲しみを表明。オバマ米大統領は「1人の人間に対するいかなる期待をも超える功績を遺した」、キャメロン英首相は「偉大な灯が消えた」と発表した。

 こうした「偉大な指導者」との賞賛が、違和感なく受け止められる人物は少ない。英Economistの記事は、マンデラ氏をガンジー、チャーチル、ルーズベルト、ドゴール、ケネディらと並んで20世紀の偉大な政治指導者として上げた。

▼平和裏の革命

 マンデラ氏の功績でまず上げられるのがアパルトヘイト廃止への貢献。しかし単に廃止しただけでなく、それを平和裏に実現したところに同氏の非凡な指導力がある。

 同時に、アパルトヘイト廃止後の南アで黒人と白人の融和をかなりの程度実現。社会の安定を維持し、後の発展に結び付けた。マンデラ氏の存在なしに、今日BRICSの一環として注目される経済の発展や、平和裏にサッカーW杯を開催した南アの姿は想像できない。

▼「人類に対する罪」との闘い

 人種隔離政策と訳されるアパルトヘイトは、少数の白人が多数の黒人を有利な場所・地位などから締め出し、差別する制度だった。1901年に導入され、第2次大戦後の1948年に法制化された。アパルトヘイト下で黒人は参政権がなく、居住区も指定。教育も白人と差別されていた。

 第2次大戦後、世界各地で人種差別や偏見は幅広く残ったが、これだけ露骨に法律で認めた制度は南アなど数カ国を除いてなかった。アパルトヘイトは、世界の人種差別の象徴となり、「人類に対する罪」と言われた。マンデラ氏が闘ったのは、こうした不条理なシステムだった。

▼27年の獄中生活で

 マンデラ氏は1918年に東ケープ州で誕生。大学中退後に黒人の政治組織ANC(アフリカ民族会議)に参加し、反アパルトヘイト運動を主導した。

 白人政権は1962年にマンデラ氏をとらえ、国家反逆罪で終身刑判決を決定。マンデラ氏をケープタウン沖のロベン島の刑務所などに収監した。獄中生活は合計27年に及ぶ。

 マンデラ氏は刑務所内でリーダーとして振る舞うのと同時に、獄中からから反黒人差別の運動を展開。ANCも同氏を抵抗運動のシンボルとして活用し、マンデラ氏は反アパルトヘイトの指導者としての存在感を高めていった。

 ANCは1960年代には武装闘争を展開し、マンデラ氏の初期の言動には過激な内容もあった。しかし次第に黒人に対する差別だけでなく、白人に対する差別を含むあらゆる差別に反対する色彩を強めた。敵対だけでなく、融和も重視したのだ。

▼無血のアパルトヘイト廃止・政権交代
 
 マンデラ氏らの闘争や国際的なアパルトヘイト批判を背景に、南ア白人政権の姿勢も変わっていった。1980年代末にデクラーク氏が大統領に就任し、黒人との共存路線に明確に舵を切った。

 デクラーク氏は1990年にマンデラ氏を釈放。マンデラ氏はANC議長に就任し、共に平和的にアパルトヘイト廃止や民主的政権への移行を目指した。

 1991年にデクラーク政権はアパルトヘイト関係の法律の廃止を宣言。ここに南アのアパルトヘイトは終焉を迎えた。1993年、マンデラ氏とデクラーク氏はノーベル平和賞を受賞した。

▼融和を訴え

 1994年4月に全人種参加の選挙が行われ、ANCが勝利。マンデラ氏は大統領に就任した。就任演説で同氏は「国民を分断してきた深い溝に橋を架ける時が来た」を表明。白人に報復するのではなく、全人種の融和を強調した。

 融和の例の一つが1995年に開催したラグビーワールドカップ。それまで南アでラグビーは白人のスポーツとみなされ、国民の分断の象徴だった。マンデラ大統領はこれを融和の象徴とすべく自ら動いた。代表チームによる黒人少年らへの指導などを通じ、黒人も含む国民が代表チームを応援する状況を作り上げた。その経緯は映画「インビクタス」に良く描かれ、印象深い。

▼社会安定と経済発展

 黒人中心の政権への移行で、白人は報復を懸念。国外への大量の脱出→経済の混乱などが懸念された。マンデラ氏の融和政策はこうした懸念を押さえた。

 また黒人と白人の対立から治安の悪化を懸念する声も強かったが、マンデラ氏の存在とメッセージが社会の安定を維持した。それが新生南アの建設にどれだけ役立ち、経済発展の土台になったか計り知れない。

 南ア経済は問題を抱えながらも成長。2000年代にはBRICS(BRICs4カ国に南アが加わった)として世界の成長センターとして認められる。2010年のサッカーワールドカップの成功も、マンデラ氏の築いた新生南アの土台の上に成り立っている。

▼Legend

 マンデラ氏は経済発展による貧困の撲滅、エイズの撲滅などにも取り組み1999年まで大統領を務め、政界を引退した。引退後は世界を回り、アフリカの発展や地位向上のために尽力した。

 NYやロンドンなど訪問地では万人単位の人々を集め、その存在感と影響力を見せつけた。若いころの闘士のイメージとは違い、公の場では絶えず笑顔。全世界の尊敬を集めた。

 伝記は多数発行され、映画やテレビでも様々な角度から取り上げられた。ロンドンの国会議事堂前広場にはマンデラ氏の像が立ち、世界遺産になったロベン島の刑務所を訪れる観光客はマンデラ氏の部屋の前で偉人に思いを馳せる。マンデラ氏の評価は、生前すでにlegend(伝説)の域に達していたと言ってもいいかもしれない。

 10日から開かれる告別の式典には、世界各国の首脳が出席する。その規模は2005年のヨハネ・パウロ2世以来になる見通し。世界は「偉大な指導者」の足跡から何を受け取るのだろうか。

2013.12.8

2013年1月20日 (日)

◆アルジェリア人質事件が問いかける問題 2013.1.20

 アルジェリア東部のガス施設を16日イスラム過激派が襲撃。人質を取って立てこもり、外国人を含め多数の死傷者が出た。事件はアルジェリア及び北アフリカにおける過激派の勢力拡大、不安定な政情、世界にとっての安全保障上のリスクなど多くの問題を突き付けた。現時点で分かっている情報をベースに問題点を整理する。

▼事件の経緯

 事件は唐突に発生した。同国東部イナメナスの天然ガス開発の施設をイスラム過激派が襲撃。当初空港に向かうバスを襲撃したのち、施設の居住区やプラント本体を占拠し、外国人を含む人質多数を取って立て籠もった。犯人はアルカイダを名乗って犯行を認め、仏軍のマリ攻撃の停止や米国で拘束されている過激派の釈放などを求めた。

 アルジェリア政府はテロに屈しないと表明。軍が施設を包囲し、17日に攻撃を開始。同日にいったん作成終了を発表した後も、19日まで攻撃を繰り返した。

 この過程で多数の死傷者が出た。内務省の19日の発表では人質23人、犯人32人が死亡したとしているが、被害はさらに増える可能性が大きい。

 事件があったのは天然ガスを開発する施設で、ノルウェーのStatoil、英国のBP、アルジェリアの国営企業の合弁。首都アルジェから1300キロ東南方に立地する。プラントの周辺には居住地域があり、アルジェリア人と外国人合わせ多数の人間が働いていた。事件後解放された人質は800人以上に上る。

 外国人は英国、フランス、日本の技術者などで、国際社会に衝撃を与えた。国連安保理はテロを強く批判する報道声明を出した。

▼アルカイダ系の犯行グループ

 アルジェリア内務省の情報によれば、事件は元AQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)幹部のモフタール・ベルモフタールが率いるグループが実施した。この人物はアルジェリア出身。90年代にアフガンで活動した後に帰国。AQIMで活動をした後に新組織を立ち上げた。鉱物資源や武器の密輸に手を染めていたという情報がある。実行犯はニジェール出身のアルナイジリ氏が率いたという。

 犯行声明では仏軍によるマリ攻撃に抗議しているが、犯行グループはかなり前から犯行を計画し、今回もリビアから入ったとの情報がある。当初は誘拐と身代金請求が目的で、偶発的に立てこもりになったとの観測も流れている。

▼政府の強硬姿勢・情報統制

 ブーテフリカ大統領の政権は犯行グループとの交渉を一切拒否し強硬策を取った。同時に事件発生後情報を統制。海外メディアの取材なども規制した。軍による施設攻撃は、英国や日本など人質を取られている国の政府にも事前連絡なしで行い、その後も発表は限定的だった。

 英国や日本などはアルジェリア政府に対し、連絡の不足などを抗議した。一方、英国米国は基本的にはアルジェリア政府の対応策を支持している。

▼アルジェリア情勢:軍事政権vsイスラム

 事件の背景として押さえておかなければならない点は、まずアルジェリア情勢だ。アルジェリアは1962年にフランスから独立。現在、人口は約3500万人、国民の99%がイスラム教スンニ派。海岸線沿いを除く国土の多くは砂漠(サハラ砂漠)で、天然ガス、石油、鉄鉱石、リンなどの鉱物資源に恵まれている。

 1991年、初の複数政党制による選挙でイスラム原理主義政党のFISが圧勝すると、軍部は92年初めにクーデターを起こし、国家非常事態を宣言した。その後2000年代初めまで軍とイスラム戦力による内戦が続き、10万人を超える死者が出た。1999年の大統領選でブーテフリカ大統領が当選(2009年に3選)。以後同大統領の下で軍事独裁制が続いている(非常事態宣言の撤回は2011年)。

 近年はAQIMなどイスラム過激派の活動が広がり、たびたびテロなどが発生。昨年は200件のテロがあったとの情報がある。軍事独裁、イスラム過激派との対立は、状況把握の基本情報だ。

▼アフリカ・中東のイスラム過激派

 もう1つ押さえておくべき点は、アフリカ・中東におけるイスラム過激派の動向だ。

 1990年代からアフガニスタンやソマリア、イエメンなどの「失敗国家」にイスラム過激派が入り込み、そこを拠点に活動を広げた。2001年の9.11で「対テロ戦争」が世界の共通認識になり、アフガン情勢ではアルカイダが同国を拠点に世界にネットワークを広げている実態が白日のもとにさらされた。

 2003年のイラク戦争で、イラクが過激派の巣窟になった。過激派は、イエメン、ソマリア、中央アジア、北アフリカなどに分散している。2000年代前半-中半にかけては、ロンドンやマドリッド、バリ、ロシア南部がなど世界各地でイスラム過激派によるテロが起きた。

 イスラム過激派とテロは世界の安全保障を考えるうえで重要なキーワードになっている。中東と北アフリカは、その中心地になっている。

▼アラブの春と北アフリカの不安定化

 2011年のリビア内戦では多数の過激派が傭兵として入り込んだといわれる。カダフィ政権が崩壊すると、武器は北アフリカに拡散した。それが過激派の活動拡大の余地を与えた。この地域では人々も過激派も国境を超えて移動し、国境にとらわれないで活動する。それが不安定要因を1国から地域全体に広げる原因になっている。

 こうした情勢が2012年のイスラム過激派によるマリ北部の制圧にもつながった。マリ全土がイスラム過激派の支配下にはいれば、地域の安定はさらに損なわれる。フランスが泥沼化の懸念を抱きつつも、現政権支持のためにマリに軍事介入し、米国や英国が支持しているのもこのためだ。

▼非民主国家と世界の安全保障上の懸念

 イスラム過激派の勢力拡大と北アフリカ・中東地域の不安定化は、世界の安全保障の根底を揺るがしかねない。

 ただ、この地域の政府は非民主的な独裁政権が多く、国民の支持を得ているとは言い難い。米欧などが単純に政権支持といえないのもこのためだ。民主化や情勢安定の見取り図は描きにくく、そこにイスラム原理主義が勢力拡大する土壌がある。

 今回の事件の詳細や真相はまだ不明な点が多い。しかし、問題から世界の抱える深刻な問題が浮かび上がってくる。
 
▼1990年代からのイスラム過激派と世界

 90年代からのイスラム過激派の動向にかかわる主な動きは、以下の通り。押さえておきたい。

・1989年: ソ連のアフガン撤退完了。90年代にかけてアルカイダ結成(ウサマ・ビンラディン)。
・1990年: 湾岸危機
・1993年: ソマリア内戦。首都モガディシュの戦闘をきっかけに米軍が撤退決定。
       無政府状態になった同国とアフガンを拠点にアルカイダが国際テロ組織として発展。      
・1998年: タンザニア、ケニアの米大使館爆破事件。
・2001年: 9.11。対テロ戦争が世界の安保の問題として認識される。
・2001年: アフガン戦争
・2003年: イラク戦争。イスラム過激派がイラク及び中東各地拡散。
・2005年: ロンドンで同時多発テロ。このころマドリッド、バリ、ロシア南部など世界各地でテロ。
・2011年: アラブの春、リビアのカダフィ政権崩壊。武器が北アフリカに拡散。
       米特殊部隊がビンラディンを殺害(パキスタン潜伏中)。
・2012年: マリ北部をイスラム過激派が制圧。
       リビアの米領事館襲撃事件。北アフリカの過激派、民兵の活動拡大。
・2013年: アルジェリアのガス施設人質事件。

2013.1.20

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